西洋哲学と文学、芸術

西洋哲学を基本に、殊にHermeneutikという文章や芸術をより分かろうとすることについて、

ハイデッガー 不足(欠乏)の時代に考える人 1960年

前書き 第二版 より

„もし、いつ迄も 学生として居続けたら、教師に敵意を抱く。        そして 君たちはどうして 私の花冠を毟り取ろうとしないのか? 君たちは私を褒め称える;  しかし どのように - もし 君たちのその称賛が ある日崩れ落ちてしまったら?“

学生として居続けないといけなかったら、と言える。つまり、その教師が、いつまでも教師であり続けたがる という意味であるとも解釈できる。

そしてレーヴィットは彼の学生に問う、私の事を褒めるのはやめろと。何故なら、その称賛は真実でないかもしれないし、私を乗り越えなければいけないから。

最後の括りの文章

キリスト教の思考者、アウグスティンは、彼の「自己会話」においてはっきりと断言している。彼は世界にでは無く、唯一 自身の精神の神へのつながりだけに関心を持っていると。                          イイエスの後に生まれた(キリスト教信者)考える人 ハイデッガーは、相反して 人間が現にここに存在する Dasein を ” 世界の中(で)の存在 in-der-Welt-sein“ と言い切った。そこで問う、存在 Sein とは、世界を 殊に 人間の現存在に対してだけを捉えているのか、もしくは、神からの私たちの精神 Seele に対しての関係なのか、結論に達して無いままで、いろいろな解釈ができる。

Seele をここでは精神と訳したが本来次の様な意味がある            1感じること、体験、殊に感情の高まり。深く、心温まると感じる感情。一般的な感覚。                              

2(宗教に於いて考えられている)死滅しない 人間の一部分。                                3(専門用語) 内部で 一番深層なところ

そしてレーヴィットが言っているSeeleは 死滅しない人間の一部分。精神と言えるかどうか、魂なのか。しかし魂と書くと、個人的には Seeleと異なる様に考える。であるので ここでも 言葉は難しい、言葉を他の言語に置き換えるのはもっと難しい とつくづく考えてしまう。