西洋哲学と文学、芸術

西洋哲学を基本に、殊にHermeneutikという文章や芸術をより分かろうとすることについて、

ニーチェ シャイで人間好きな哲学詩人

嬉し楽しき科学(もしくは知識、調査研究)  二版への前書き
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この本にはもしかしたら、前書きが全く必要でないかもしれない: 最終的にずっと、不確実さが残ったままであろうから。それに、もしこれに似た様な事を体験していなければ、この本の前書きによってその経験に近づけられるかどうか。氷を溶かす様な生暖かい風の言葉で書かれている様でもあり: 恥知らず、不満足、矛盾、4月の変わりやすい天気が詰まっていて、またその上に、冬が近いのに、冬への勝利をしつこく催促している感もある。
奴が来る、来なきゃならぬ、もしかするともう来ている。。。。ありがたい気持ちが続々と湧いて来る、まるで全く期待していなかった事が起きたかの如く、病気が快復した人の感謝の気持ちー そう、この快復が、この全く期待していなかった事。
≫嬉し楽しき科学≪ これは、古いローマ帝国時代の12月の祭り、1日だけ主人と奴隷の立場が入れ替わる祭礼の、その祭の真髄が、恐ろしい程長い間抑圧され、我慢に耐えそれでも対抗していたがー忍耐強く、弛まず、冷静に、自身をヘリ下さず、しかし全く希望も無くー、それが今一時に、健康への希望、快復に酔いしれる希望、とにかく希望があるという事に気付ける事を意味する。何が驚きかって、それによって沢山の無理性や、人を嘲笑する様な事項が光を浴び、沢山の意地悪い悪意の潜む優しさ、それ自体不必要な問題ではあるが、トゲトゲの毛皮をつけ、その後何もしない何者かに抱きつかれ、巻かれていく。
この本の全てが、長かった抑圧と無為無能でしか居られない状態、戻ってきた力への称賛、新しい目醒め、明日と明後日の為の信仰、突然の感情や未来への予感、近くの冒険、再び広がる大海、再び許された事を、再び確信する目的に達する事を、楽しむものではない。
だから、私の後ろに今、何が転がっているかって!この砂漠の一部、疲れからの退廃感、信仰不足、真理の見極めへの不確実さ、青年期の真っ只中での凍結、それをもう時代遅れと不適格な場所に押し込めて、この痛みのテロを、その上に更に、これを持って引き続き起こる再度の痛みを拒否する誇り、というテロに置き換えるがーその後に来るのは慰め、自分自身を励ますだけー
このとてつもない孤独は、緊急時の自己防衛として、れっきとした病気として、福音的にまでなった人間無視、苦く渋く痛みを伴う認識への、これらの根本的な妨害は、不注意な精神のダイエットと甘やかしとして、下卑ているとして位置づけられるー人はそれをロマンティックと呼ぶー そしてそれは徐々に広まってきているーああ、誰がか僕の事を全て解ってくれたら!解ってくれたとしたら、少し戯けて、でも人生悪いもんじゃないと、ちょっと気取ってみたいものだ。》嬉し楽しき科学《―例えば手のひらいっぱいくらいの、この本に付け加えている歌― 歌、その中でもある詩人が、難しい表現で、他の全ての詩人を嘲笑する。― そう、それらは詩人と彼らの麗しい》叙情的感情《だけで無く、この今,再度立ち上がった奴、悪さをこれでもかと見せつけなくてはならんという奴をも: しかし誰が知ろう、奴は既に犠牲者を探しているかも、悲劇の中の凶悪者が直ぐにでも奴をもっと悪に駆り立てようとやって来るかも?》Incipit tragoedia 《悲劇のはじまり―と呼ばれる、この疑惑的―信頼的な本: 頭にのっかている帽子に気をつけたまえ! 何か少し,普通ではない酷いことや、意地悪な事が起こるだろうと告知されている: incipit parodia, パロディ(悲劇)のはじまり はじまり、それは間違いない。

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