西洋哲学と文学、芸術

西洋哲学を基本に、殊にHermeneutikという文章や芸術をより分かろうとすることについて、

カール レーヴィット遺構 「本当の日本」

M氏はあるドイツ人(男性、仮名N)の日本での発言が、彼の日本人としての自覚を傷つけられた事への反論を、順を追って話した。そのヨーロッパ人が日本について持っていた不公平な“偏見”を否定した。だがこの反論での不可解なことは以下である。ヨーロッパ人のNが、欧州の文明文化が日本にいろいろな分野で影響していることが、日本にとって危険であると見た事に対し、日本人Mは日本では欧州の文明文化を基準にしているとしての抗議であった。N、10年間日本に居住、彼の地の文明文化を取り入れようとする事への批判、日本人M、ドイツの大学で学び、ゲーテファウストを翻訳、受容は危険ではなく、欧州の文明文化は手本であると確信している。であるので立場ががずれている。MはNの見解を見下されたと感じ、自国を守らなければならないと思ったようだ。その反論の重要点はこうだ:
1) Nの発言、日本ではアイヌが無視されている様で、まるで半分野性みたいな生活だ。それについてNの反論、アイヌには日本全土開放されていて、政府はアイヌ民族発展の為にはどんな協力も惜しまない。アイヌの一人はなんと東京で、大好評だった講演まで行なっている。実際には、古代から絶え間なく続いている民族なのに、国内のある一定の狭い地域で、その民族の発展を押さえ付けられた存在として細々と暮らすしかない、と言われた事をMは批判と感じたのだ。    彼は一般的な現実の歴史、現実にあった先住民族の征伐と根絶を認めようとしないし、認めるこができない。何故か? それはMが18世紀のヒューマニズムの思い込みしかないからだ。

2)Nは見た:日本国内ではほとんど裸で出歩く。M曰く、それは実際そうであり、50年先(Mの表現)でもヨーロッパ人が、初めて夏に日本を訪れ、女性 男性 子供を問わず、仕事をしていたり、それぞれの家に居るのを見たら、それに気づくはずだ。ひょっとして何人かのキリスト教伝道者が反発するかもしれないが、先入観の無いヨーロッパ人なら殆どが、この一般の習慣をおかしいと感じないだろう。一方で暑く、湿度の高い気候であり、また一方では、キリスト教の教会が教えた裸になる事への羞恥心が無いという違いから、それは説明できるだろう。
実際に私が初めて一神宗教でない人達の裸を見たのは、八幡神社の新年祭であった。そこでは寒いのに、男たちがほとんど裸の状態で供物を捧げていた。M氏は彼の欧州化の影響からか、それを恥ずかしいと感じていたが、Nに反撃し:
日本の法律で、≪もう何年も以前から≫≪なんと≫ ≪極端な膝から上の露出≫ は罰金刑になる、と。まるでそのような欧州の影響を受けてできた法律が、一般的な習慣として定着している事に対してあたかも効力がある様に、またNが日本では男女の陰部を隠さないとでも指摘したかの様に言った。もしNが、≪ほとんど≫裸と言ったとしても、勿論あの身体の部分は外しての裸、世界中全てにおいて(文明化されていない地域でも)、自然的な羞恥心から隠すことは当たり前、と思ったに違いない。そして何故Mが こんな複雑な恥ずかしい陰部の表現を(極端な等)使ったのか?何故なら明らかに、かれの本来の日本精神にも拘らず、キリスト教的、欧州的思い込みに縛られているから、そしてこの習慣の素朴さを全く重要視していないから。ギリシャ人だって、パレストラでは真っ裸で戯れたし、モダンな欧州の学校でも、スポーツでは裸体を奨励している。


続く

ある雑誌で読んだ記事の翻訳より。

 

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カール レーヴィット 1897 ~1973