西洋哲学と文学、芸術

西洋哲学を基本に、殊にHermeneutikという文章や芸術をより分かろうとすることについて、

祈るとは

先日のローマ教皇ツイッターに、祈りが意味する事は、という書き出しで始まった文章があった。それは、祈りのとき、本当の自分で無い自分であろうとしない事、言い訳をしない事、自分は正しいのだと自分で決めて、神にその様に見せようとし事。           

神はあなたが自分をよく見せようとしたら愛さない。神は本当のあなたを愛しているから。神の愛に条件など全く無い。あなた自身がどうこうとか気にもしていない、とも。

キリスト教、厳密に言えばここではローマカトリックでは真実の自分 ほんまのほんまの自分を晒さなければ、神はあなたと話をしてくれないということになる。真実という日本語がほんまのほんまと私が考えている概念に当てはまるのかどうか、少し不安ではあるが、ドイツ語ではWahrheit フランス語はvérité と言い、また神だけでなく西洋哲学でもこれを追求する。とても大切な概念である。この概念においては西洋哲学では激しい論議が飛び交ったり、キリスト教では特別の概念があったりと、日本語の真実で表現できないと個人的には考えているけれど。とにかく、フランシスコ教皇が仰りたかったのは、ほんまのほんまの自分を神にさらけ出さなければならない、という事である。

ローマカトリック信者になって、かれこれ20年近くになるが、日本人の私は今でも 祈りについて疑問がいっぱいある。仏教や神道で祈るのとは違って、神との対話というか、神の言葉を待つ自分がいるというか。しかしそれが正しい祈り方なのかどうか。以前私の教会の神父と一緒にビールを飲んでいる時、聞いた事があったけど、神父はキミが信じている様に神に祈ればいいんだ、と言ってくれたけれど。

私は殊にマリアに祈るのが一番祈りやすい。マリアは人間だったし、女性で母で、自分に近しいものを感じるから、母の様に思えることもあるからかもしれない。私はイエズス会で祈りについて教わった。マリアやイエスに祈ったら、彼らが神に祈りを届けてくれると。イエスは神の子であり、神と一体だから当たり前だが、マリア信仰はカトリック教だけに広まっている祈りである。

禅仏教では無になって祈るべき、と言うけど、キリスト教では自分が無になったら、神に祈れなくなってしまう。また無になるって、神はありのままの私を愛してくれてるのに、無になったら、命をくれた神に失礼この上もないではないか、それに対話もできないではないか、と思ってしまう。対話する事は言葉が必要である。言葉が無くては何も始まらない。

ヨハネ福音書は こう始まる                      

始まりは言葉だった そして 言葉は神にあり、言葉は神であった。(私訳)

西洋ではとにかく言葉が大切である。