西洋哲学と文学、芸術

西洋哲学を基本に、殊にHermeneutikという文章や芸術をより分かろうとすることについて、

芸術論について

日本の美術関係について読む事は余りないが、昨年余りにもひどい美術評論をネットで読み、その出版社に間違いを指摘した事がある。全く何の音沙汰もなく今日に至っている。批判ではなく訂正であり、正しいと考えているので、ここに発表し、この原評論を読んだ方に、少しでも真実をお伝えできたらと考えた。日本だからどんな美術評論を書いてもいいとは言えない。芸術には描かれた時代の背景や画家の意見や、宗教的解釈や色々な真実が織り成されているから、真実を曲げてはいけない。

日本のインターネットのサイトはもう存在しません。
中野京子氏の作品につきまして ベルリンにて 2019年2月27日 文藝春秋社御中
今日偶然、以下の二つの記事を拝見して、
自分が考え抜いて正しいと考えたことは伝えるべきであり、伝えられた人は聞くべきだ
という哲学者カントの言った言葉を思い出しまして、お伺いを差し上げます。

https://headlines.yahoo.co.jp/article?a=20190225-00010792-bunshun-ent&p=1
このナポレオンの記事ですが、英、仏の王に手をかざしてもらうと、それで病人は救済されると思っていた、とこの絵の説明に書かれています。
https://www.louvre.fr/oeuvre-notices/bonaparte-visitant-les-pestiferes-de-jaffa-le-11-mars-1799
これは、ルーブル美術館のこの絵の解釈です。
ここにははっきりと、シリアで、 あたかもキリストの如く、ボナパルトがベスト患者に手で触れよう、かざそうとしている、
en Syrie. Comme le Christ, Bonaparte impose sa main sur un pestiféré.
とあります。この1799年に書かれた絵が、1791年〜1801年までのエジプト遠征のあと描かれた 中野氏が取り上げられた絵は、1804年の絵ですが、主題は全く同じです。
このルーブルにある古い方の絵は ボナパルトのちのナポレオンが直にグロに依頼したと言われています。その時初めて総督に就任した彼が、イギリスが彼が悪行を働いたと報道していたのでそれを 洗い流そうという目的でした。
キリストの存在が日本はキリスト教国で無いので、何処か真意に欠けるところがありますが、この説明の文章も残念なことにそこがうまく表現できてないようです。
誰かを キリストに置き換えることは、神にも置き換える事に繋がり、それは大変な過ちであり、禁じられた奢りの最高峰と言えるわけです。又 聖書にはイエスが手をかざして病気が治った話が所々出てきます。
そういう事を前提にグロはボナパルトを神聖化しようとした訳です。私はグロの研究をしていませんので、何故彼がそういう風に描いたのか 断言できません。ですが、もちろん依頼されての事ですので、言うなれば依頼に答えてイギリスを納得させなければなりません。その点でボナパルトを神と同等の地位に置き(罪な行動であっても)、崇高さを与えたという風には考えられます。ですので、尚更この絵のボナパルトは王ではなく、イエスを連想させないとなりません。という事は 中野氏の仰っていられる王 に例える というのは、間違えています。そういう風習があったかどうか以前に、この絵の解釈を誤解なさっていられます。
これ以降グロは一時、ナポレオンを世に高く評価さす為の画家になります。でも
本来はこの絵自体の方が、ネオクラシックの貴重な例としてあげられると解釈される事に 注目するべきです。ネオクラシックとは、芸術において、古代ギリシャやローマ時代の、真のスタイルに戻ろうという動きだった訳ですが、この絵もその潮流にあります。ジェファは アラビアになるので、絵の中にはそれらしき建物も勿論描かれていますが、この構図自体は、1784年に描かれた ジャック ルイ ダヴィットのホラティウス兄弟の誓いを取り入れています。ダヴィットは、ネオクラシックの先駆者でした。芸術のエポックの流れは、このようにして受け継いで行かれ、それは贋作とかでなく、方法やテーマなど時代の流れによって試行錯誤されながら、続いていきそこから新しいエポックが又生まれてきます。グロのこの絵は、この後のロマン派 に続くための礎になったと言われています。

次に ロココ時代のモンスターとカール フィリップ エマニュエル バッハ についてです。
http://bunshun.jp/articles/-/8749
メンツェルのこの絵はベルリン在住者なら多分一度は見ていますし、
フリードリッヒ二世 Friedrich der Große フリードリッヒ デア グローセ については、ドイツ人ならば誰でも、知っている有名な王様です。この絵が描かれたのは、1850〜1852年で、このとても素晴らしかったと後々まで讃えられているフルートコンサートがサンスーシー宮殿の音楽サロンで演奏されたのは1750年です。つまりメンツェルはその有名なコンサートを100年後に想像して表現したのです。このコンサートが何故開催されたか、誰が出席していたかは 記録に残っています。メンツェルはこの時38歳だったフリードリッヒ二世に 19世紀のプロイセンの簡素なユニフォームを着せました。ロココのコスチュームではありません。しかしその他の点、当時の決まりで王が座らなければ男性は座ってはいけなかったので、男性は全て立ったまま、女性のドレス、会場の様子などの点は史実に基づいて描いています。また、サンスーシー宮殿はロココ時代に建てられましたが、プロイセンの権力を見せつける為もあり、この王が彼の趣味で些細な部分まで家具調度品に至るまで自身で吟味したので、ロココ形式であっても完全なロココ形式ではないという特徴があります。
また、中野氏は内容を面白くする為なのか、王の演奏を宮廷人が絶賛していた事は、信用ならないと言い切っていられますが、疑問を感じます。事実として文献にも残っているので、個人の意見としてでも容認され難いからです。王のフルート教師のクヴァンツの複雑な表情とありますが、この表情はメンツェルが描いたもので、この表情だったかどうか全く説明できません。バッハの表情も同じことです。ですので、真実を伝える努力を中野氏は全くしていません。実際メンツェルは、一生の半分はこの絵を描いたことを悔やんでいた、とこぼしていますが、音楽家たちの表情についても悔やんでいたのかもしれません。具体的に知りたいので、調べてみたくなっています。
それから 王がフランス語を話していたのは、中野氏が仰るドイツ語云々ではありません。その時代のヨーロッパの王族は皆 フランス語でした。彼の直筆書簡なども拝見した事がありますが全てフランス語です。王族、貴族はフランス語が当たり前で、ドイツ語(当時はまだドイツ語という言語が確立されていませんでした。ドイツ語を確立させたのは後のグリム兄弟と当時の学者たちです)を話すなどと、考えることも、言うこともありませんでした。少なくとも私はそう言う文献を読んだ事がありません。フランスの流儀が王族、貴族たちのマナーだったのです。おフランスという言葉がありますが、日本人だけの感覚から生まれた言葉で、プロイセン時代、いやその後もそれに当てはまる言葉はないですし、日本的な羨望と憧れをフランスに持っているという事は無いので、この使い方で読者を惑わせると感じました。あたかもプロイセン人が日本人と同じ様にフランスに対して思っているような。。
しかしここで申したいのは、この絵の中で、チェンバロの前に座っているカール エマニュエル バッハが 王から逃れる為に ハンブルグに行った とわざわざ 書かれている事です。
https://www.cpebach.de/ueber-bach/biographie/potsdam-und-berlin
これは そのバッハのページです。彼はハンブルクに最終的に行きました。しかし中野氏の書かれているような、王から逃れるためでは決してありません。王との関係は後から来た若い同僚との問題もありましたが、王が彼の報酬を200ターラー増やすことにより、解決し留まっています。王に対して不満を持っていた、ましてやそれから逃げたというのは、どの文献に書かれているのでしょう。そうではなく、自分の才能をもっと認めてもらいたい、もっと沢山の仕事をしたい為に、ベルリンから出る事を考えていたのですが思うような受け入れ先が見つからなかったのです。またバッハの仕事は王の伴奏だけでは決してありませんでしたけれど。結局1738年から1768年まで30年間プロイセンで勤めました。
1767年、ハンブルグカントーア、教会の音楽担当者だった ゲオルグ フィリップ テールマンが亡くなり、その後継者に申し出て 思っていた雇用先をやっと見つけたのです。しかし王は彼を離したくなかったので、最終的に認めたものの、冬の引越しは大変だからと引き止め、結局1768年の復活祭の日曜日にバッハはハンブルクに引越しできたのです。そのくらい、王との関係は良好で、王から逃げたいからプロイセンから離れるという考えは無かったと考えられます。
あの有名なバッハの息子 というのも、今ではそうですが、父のバッハは彼の死後、フェリックス メンデルスゾーンの母親が、息子のピアノの練習の為にとバッハの楽譜を与え、息子が弾くようになって、つまりメンデルスゾーンがバッハを大変愛し、よく演奏するようになり、徐々にバッハの才能が再認識され出し、今のバッハになったという流れがあり、それまでは特にこの絵の書かれた時点では全く忘れられていた存在なので、ここでの表現には相応しくないのでは、と考えます。まして父と子が同じ時代に活動していたのですが、当時は子の方が有名だったようです。
C.E.バッハの作品も彼の死後忘れられていたのですが、20世紀になり誕生から200年ほど経って、彼の作品は バロック とクラシックの中間 にある、どちらにも所属しない一つのエポックであるという事が認められたという経緯もあります。センチメンタリズム音楽 と日本語では訳す様になりますが、センチメンタリズムは文学に限っていて、ドイツ語フランス語ではEmpfindlichkeit と言い、繊細な感情を表現した音楽、という感じで言われています。
最後にもう一度、王のフルート演奏が下手だったので、彼が伴奏を苦にしていたとは 今まで個人的に聞いたことも無いですし、このサイトにも全く書かれていません。絵の解説でも読んだ事が無いです。それどころか、先にも述べましたが大変上手なフルート奏者だったのです。Sabine Henze-Döhring: Friedrich der Große. Musiker und Monarch. München 2012, S. 23 ff.参照
彼はプロイセンがひどい飢饉になった時に、当時スペインに入ってきていたジャガイモを、悪魔の食べ物と呼ばれていたのですが、国内に植えさせ、飢饉を凌ぎ、ドイツをジャガイモ大国にした王でもあります。その少し後に生まれたゲーテは、ジャガイモなど食べるものではないと言っていますけど。

一番気にかかる部分ですが、絵画、美術の文章を書く人は、こちらでは一般的に、Kunsthistorikerといい 、芸術史、哲学、語学などを勉強します。大学に学科があります。ドイツ語圏で最も威厳のある、この学問の基礎を築いた学者の一人としては ハインリッヒ ヴェルフリンなどが居ます。彼はまた 美術批評についても学問として確立しています。
申し訳無いのですが、中野京子氏には、Kunsthistorikerとしての知識があまり無いと思われます。文章がお上手なので面白い読み物にすればいいとお考えでも、真実が伝わっていなければ 読者は騙されたまま、間違った知識を身につけてしまいます。中野氏のお考えで面白くなさるのはいい事ですが、史実を面白くする為に変えたり、史実を認識せず面白くしたり、というのは、全くのノンフィクションとして書かれていないので、疑問を感じてしまうのです。ここでいう面白くするというのは、日本人にとって興味深くするという意味も含みます。
批判するのは日本的でないので、控えたいと思いましたが、
あまりにも事実と違うことを、たまたま初めて拝見した二つのお話で見つけましたので、驚きのあまり書いています。中野氏がどのような文献をご参照なさったのか、普通なら公開するのが一般的ですが。以上につきまして、中野氏のお考えに至る様になられた 文献も提示して、お答え頂けます様に ご検討頂けましたら、私としても参考になります。

怖い絵 というタイトルも拝見しました。怖いグリム童話というのも一時日本でありました。ここではっきり申し上げます。こういう意味で使用される日本語の怖い、という日本の感情が西洋の芸術には存在していません。そこには 儒教やそれを基礎にした仏教文化が土台となる日本文化と、ギリシャ文化、それを継続したキリスト教文化という流れの西洋文化の相違があるからです。美徳も宗教も違いますので、こちらで創作された作品を日本の感覚で解釈する事は、面白いかもしれませんが、全く意味もないし、不可能な事です。全く異質なものを比較できません。そして日本と欧州の違いは、自己の無にもあります。
日本の仏教で無になるという時は、自身も否定してありません。しかし キリスト教で無になるという時、自己は、神から授かった自身の存在は否定しません。ここでも大変大きな違いができます。芸術を紐解く時に、こういう点にも注意が必要です。
Hermeneutik の方法を使い、芸術、文学の解釈を理論的に哲学的に紐解く為には。作者の生い立ちから宗教、その人を囲む全ての背景を、その人自身か、それ以上によく理解しなければなりません。また出来る様に作者についても大変調査します。これで全てが分かるとは言い切れませんが、少なくとも、作者が何を言いたかったのか、その真実を知る為に一歩近づけるようにはなるでしょう。そして芸術を読み解く為に必要な手段でもあります。これ無くして、西洋の芸術を理解する事は困難です。
例えば、教会の中には必ず、福音者やイエスの彫像があります。作った人は職人さんですが、この像の出来栄えが素晴らしく崇高な芸術に値するとなったら、その職人さんは芸術家になります。でも、何処で、何をもって、普通のイエス像が 芸術的なイエス像になるのでしょうか。そして誰がその判断を下すことができるのでしょうか。
教会の彫像を作ってヨーロッパ中を駆け巡っていたとあるマイスターグループの歴史があります。時間的に150年以上の違いがありますので、マイスターは変わっています。そしてその彫像の表現もだんだん変化します。このグループを見つけ出したのはハーマン教授というドイツ人のKunsthistorikerで、上記に述べましたヴェルフリンが彼の教授号の担当教授でした。彼の論文が発表されて50年以上になりますが、この研究はまだ終わっていません。西洋の芸術には流れがあります。19世紀以降の芸術を紐解く学問にも流れがあり、皆真実を見つける為に、流れを遡ったり下ったりしながら、研究に励みます。
個人的にこの様な現実を見続けている私には、中野氏の文章はある意味、これらの人々にも、また芸術家たちにも、余りにも軽々すぎて、ある意味侮辱では無いかとも見受けられましたので、お便りを差し上げます。日本だからどういう見解をしてもいい とお考えなら仕方がないですけど。それならただの嘘満載の娯楽読み物として出版なさり、文中への 何処からかの引用なども全て作者が考えた事 として明記するべきだと思います。つまり、全てが中野氏の創作という事にして、読者が事実と間違えて信じないようにするべきです。中野氏の書かれるお話は面白いですが、西洋の芸術を伝えるには深さがなく、解説される絵画の真実を伝えるには不十分ではないかと見受けました。芸術の真実は面白いだけでは伝えられません。何らかのお答えを頂きければ、とても嬉しく思います。